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第1076話

Author: 宮サトリ
「本当に辞めるつもりか?」

「はい、もう決めました」

由奈の声は、受話器の向こうで驚くほど澄んでいた。

その響きには迷いがなかった。

浩史は、しばらく何も言わずに座ったまま、机の上の辞職願に視線を落とした。

どうやら彼女の決意は本物らしい。

「分かった。退職届は、できるだけ早く処理しておく」

「ありがとうございます」

電話を切る音は、いつもより静かだった。

だが、彼は受話器を耳から離したまま、まだ通話を切らなかった。

おそらく彼女は、自分から電話を切るのをためらっている。

「社長?......では、こちらから切りますね?」

唇を引き結んだ彼は、一言だけ搾り出した。

「......ああ」

その短い返事を聞いて、向こうで安堵したように息が漏れた。

「それじゃあ、失礼します。社長、ちゃんとサインしてくださいね!」

明るい声とともに、通話が途切れた。

浩史は、しばらくそのまま動かなかった。

やがて無言のままスマホを置き、机の上の一本の黒いペンを手に取った。

キャップを外した瞬間、手の中で金属の冷たさが微かに震えた。

その感触に、心の奥がわずかに揺れた。

ちょうどその時、ドアを叩く音が響いた。

「どうぞ」

入ってきたのは秘書だった。

視線が机の上の書類をとらえ、思わず眉を上げた。

「社長、もう辞職願を受け取られたんですね」

「......ああ」

秘書は、つい数分前に人事部で噂を耳にしたばかりだった。

由奈が退職するらしい。

慌てて報告に来たのだが、すでに社長の手元には届いていた。

しかも、今まさに彼の手の中のペンが、その書類の上で動こうとしている。

秘書は一歩前へ出て、ためらいがちに言った。

「......私が彼女を呼びに行きましょうか」

「必要ない」

冷たくも鋭い声が遮った。

その声に足を止めると、彼は静かにペンを動かした。

署名欄に、自らの名を記した。

その様子を見て、秘書は呆然と立ち尽くした。

「社長......本当に、何も聞かずに承認されるんですか?」

答えはなかった。

ただ静かにペンを置き、サイン済みの辞職願を差し出した。

「人事部へ回しておけ」

「......承知しました」

書類を受け取った秘書の視線が、思わず彼の手元へ向かった。

そこにあるのは、光沢を失った一本の黒い万年筆。
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